呉式太極拳をやってます03

前回の記事はこちらから。

謎の「研究会」

まあ、「無極会に2年ほど通ってました」、といっても、予約して、1時間弱かけて行って、1時間稽古して帰る、というのはなかなかしんどく、めんどくさがりな私は忙しくなると、一ヶ月くらいサボったりしていたわけですが、そうなると人間は言い訳を探しはじめるものです。私の場合、それは「上達の実感がないな……」というものでした。前回書いたように、他の練習生は一人を除いては強い人がいるわけでもなく、しかし先生は別格に強く、その差が極端すぎて自分が上達しているのかどうかわからない。質問をぶつけてみても(もちろん、一応きちんと答えてくれるのですが)、あまり納得する答えを得られない。

ちょっと残念だったのは、

「カカト問題(正確には「足のどこかが痛いけど、場所もはっきりしないし、ましてや原因がサッパリ分からない問題」)」。無極会では、延々とただ「歩く」練習、その後に手の動きをつけて、摟膝拗歩で歩く練習をするのですが、8畳(もっと狭かったかな?)くらいの部屋でやるので、10歩も歩かないうちにすぐ壁に行き当たります。当然、転身(ターン)が入るのですが、この動きをすると左のスネや甲など、いろいろな箇所に引き攣るような痛みが走るようになり、毛先生に聞いたのですが原因がわからず、ということがありました。
その後、相当長い時間をかけて自分で考察した結果、爪先に重心が残ったまま転身すると、足の変な部位に無理な力がかかる、ということに気づきました。冷静に考えれば当たり前のことではありますが、自身のわずかな剣道経験や、格闘技の解説などで「ベタ足」で動くことが、フットワークを使えてない、ダメな状態、のようにに言われがちな風潮から、「あまねく武道・格闘技は本来爪先立ち/爪先重心でやるもの」と思い込んでいた自分としては、爪先重心の弊害、などということは思いもしなかったんですねえ。「ひょっとして、ここの太極拳は基本的にカカト重心なのでは?」ということに思い至るのに随分時間がかかりました。

ある日、毛先生に「もしかして、転身ってカカトでやるんですか?」と訊いたところ、「もちろん、そうですよ」との答え。さらに、「むしろ、基本的に重心って踵なんですか?」という質問にも「yes」の回答。「その昔、爪先を上げた状態で練習する達人もいた」とのハナシも。もしかしたら自分自身で気づくまで試されていたのかもしれませんが、正直、痛みまで訴えているんだから、これくらいはちゃっちゃと先に教えて欲しかった……と思ったのは確かです。

まあ毛先生にしてみたら、一週間に一度、1時間稽古するくらいで簡単に上達されてたまるか、という意識があったんじゃないか、という気はしなくもないですけどね。。

で、先に述べた通り、「陳家こそ至高」と20年近く思い込んでいた私は、楊式およびそれ以外についての知識が皆無だったこともあり、ときどきモヤモヤするとネットで呉式太極拳のことを調べ、「陳式源流論がどうこう、というよりも太極拳そのもの起源が、なんだかよく分からないモノであるなあ……」と思っていたのですが、ある日なんかやたらと分量の多い、呉式太極拳についてのブログに行き当たります。日本語が時々怪しいものの、「どうもこの人が言っていることは、(wikipediaとかに書いてあることと違って)明快、かつ、ものすごく他と違っている気がする」ということだけはわかります。
この頃はさすがに私も陳式太極拳源流論があれこれ言われていることには気づいていたのですが、どうもそういうレベルではない、もっと大事なことをこの人は言おうとしているようだ、ということを感じ、もしかしたら私の、「太極拳のこと知りたい欲」が満たされるのではないか? という気持ちがむくむくと沸いてきました。

その人は沈剛という上海出身の方で、「呉式太極拳研究会」を名乗っている……というか、ブログでちょうど立ち上げ宣言をしたようなタイミングでした。

これは一発、ハナシを訊かないとイカンな、という気持ちは日増しに高まったものの、さすがに毛先生に黙って他のセンセイのところに行く、というのは後ろめたく、また、この頃になると武術家同士の微妙な緊張関係は大変にフクザツであるなあ、ということにうすうす気づいていたので、毛先生に「東村山に沈、という人がいるんですけど、センセイはこの方とはなんか面識とか、因縁とかありませんか?」と確認を取り、問題ないようだったので沈剛氏にfacebook経由でコンタクトを取りました。2013年6月21日のことでした。

その時のメッセージを発掘。

太極拳無極会 http://www.chtaiji.net/jp/ にて呉式太極拳を毛老師より学んでいる、日高と申します。沈先生のブログを拝読し、太極拳への真摯な姿勢に打たれました。 私は太極拳を学びはじめて一年少々の若輩者ですが、日々身体との対話を楽しんでおります。いずれお邪魔して、是非一度お話させていただければと思います。

で、もちろん沈先生は快く応じてくれ(今考えると「見学」ではなくて「話がしたい」だったんですね。なんだかエラそうで汗顔の至りであります)、教室の見学をし、その後近所のドトールで長時間面談(という名の無料レクチャー)をしていただきました。初めて聞く話ばかり(冷静に考えると、この時点で馬岳梁先生がどういう人物だったか、私はたぶんちゃんと把握してなかったと思います)で、3割も理解できなかったというのが正直なところですが、とにかく沈先生が放つ得体の知れない迫力と、真摯な姿勢に強い印象を受けました。

最初に天地が引っくり返るような衝撃を受けたのは、やはり骨盤についてのアドバイスでした。正確には、「骨盤」と「腰」は違う、というハナシで、これはもう研究会の本やブログ等で何回も言及されているのでここでは省略します。

足裏の経穴また、たしか最初の面談の段階で、踵重心の話もしたと思います。前述の「カカト問題」がなかなか解決しなかった理由の一つに、世の太極拳書籍、あるいはサイトには、足の重心をどこに置くべきか、という議論がほとんどなされていなかった(俺調べ)、ということがあります。検索して検索して、やっと出てきた一般解は、「重心は湧泉(正確には、「意識を百会から湧泉に通す」が主流派かな?)」というものでした。しかし、冷静に考えると「湧泉が重心である」、というのは明らかに変です。たしかに、ざっくり言えば逆三角形をしている足裏を平面図で見た場合、湧泉のあたりが丁度重心になりそうな気もしますが、人間のカラダは、踵の骨から脚部(スネ)の骨が垂直に伸びており、直立している限り、重心は爪先側ではなく、踵(経穴で言えば失眠ですね)に乗るのがむしろ自然です。それでも、足裏のイラストを見せられると、「あー三角形の重心ら辺だから湧泉が重心なんだな」と、懐疑派の私でもなんとなく思ってしまうのですから、固定観念って怖いですね。

閑話休題。たぶん、その場で推手もしたと思いますが、当時四正推手はできなかったから(無極会では、基本、教えてもらっていなかった)、テキトーに私が押しただけだと思いますが、正直なにがなんだか分からなかったけど、いいように重心を浮かされて泳がされ、この人とんでもなく強い! ということは分かった、というところでした。当時は折叠勁とか鼓盪勁とか、概念どころか言葉自体も知らなかったのですから、まあ、無理もないですね。

師匠替えすべきか否か

面談後、しばらく悩みます。

  • 毛先生のところで、まだまだ学ぶことは沢山ある(2年弱の間に、套路は最初の摟膝拗歩に行ったかどうか、といったところでした)
  • それどころか、自分の力量では毛先生と沈先生、どっちが強いのか、すらも正直に言えば、わからない
  • しかし、沈先生は間違いなく、太極拳自体について深く知っているようだ
  • だがしかし、そもそも師匠をコロコロ変えるのは基本的にどうかと思う。無極会で太極拳をちゃんと学んだ、というには烏滸がましい質量しか修めていない現在、師匠変え、というのは人としてどうなのか。

うーん、うーん。

で、自分で悩んだあげく結論が出なかったので、アッサリ山田編集長に丸投げします。
facebookでメッセージを送ったところ、山田編集長は快く返信をくれました。いろいろ、書いてくれたのですが、

「武器をやらないところでは、強くなれない」

という一言は刺さりました。およそ人類の歴史は、さまざまな道具による自己の拡張であり、また、おそらく全ての武術が、いわゆる戦国の世に発達したものである以上、武器の扱いは身体の修練にとって必須であり、むしろ当時の「実戦」は武器術にこそあって、素手同士あるいは素手対武器、などというシーンはむしろレアケース、文字どおり刀折れ、矢尽きた後の最終手段であったはずです。そして、中国武術では「武器術」と「素手の動き」は、基本的に同じ原理で構築されている、というのは「山田理論」の重要なポイントです。無極会には、一応剣(刀だったかな?)は置いてあったものの、それを教わることはついぞなく(公表されているカリキュラムにも多分なかった)、毛先生のブログでも、武器についての言及は記憶している限り、皆無でした。沈先生は、お会いした時点で、そもそも槍をかついでおり、サイトやブログの教授内容にも武器の套路が列記されておりました。面談の際、「武器はどうですか?」と訊いたときにも、「武器は「筋」を伸ばすための良い練習となります」と即答されていました。

なるほど。これは明快な違いだ。

であれば、これは習うべきだろう。

ということで、私は毛先生に「しばらく来ません」とおいとまを告げ、正式に沈先生のところに通う意志を伝えました。

……で、現在に至るわけですが、とりあえず本のハナシまでしちゃうか。ということでもうちょっと続きます(なげえ)。

「呉式太極拳をやってます03」への2件のフィードバック

  1. 結果的に間違ったものを教わった方で結果的に嘘をついてしまった(全部自動詞)ならば、私はその方を同情しその方がいつか自分が嘘つき先生より教わってしまったことが悟ることをお祈りするしかありません。
    勿論、その方に拳法を教えた方も嘘つき先生から伝授された可能性があります。
    故に一番最初に適当に太極拳を解釈し教えはじめた人間の罪は本当に許されないものです。

  2. 研究者・修行者の段階で、「このように教わったけど、本当はこうじゃないかな?」と、考察したり自分で解釈すること自体はある程度仕方ないか、と思います。どんなに修練を重ねても、すべての人は一生研究、一生修行、ですから。

    問題は、未熟な段階の、未熟なモノサシで解釈したものに疑いを挟まず、それを唯一の正解として伝えてしまうこと、そして、それに疑いを挟まず、それを継承してしまう、という負の連鎖にある、と思います。

    たとえば、私の、「重心は踵」という理解も、たぶんもっと先があって、これはこれで一生考え続けなければいけない問題なのだ、と思っています。

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